● 五藤義行著(1997年4月15日)
     『少女たちのミューティズム』  
        The Girls in Mutism
          場面かん黙児との月日


少女たちのミューティズム

 いつも子供たちにカタカナ名をつけて紹介するのは、一つには、思い出の子供たちをA子とかB子とかの記号名で呼びたくないからです。
 また、手前勝手に花子とか京子とかの仮名を付けるのは、その名前の女性に失礼というものです。
 ですから、趣味といったら洋画だけの私は、スクリーンのスターの名前をつけることにしています。
 今回は3人とも少女なので、憧れの女優がそれぞれの作品で演じたヒロインの名前をつけることにしました。
 オードリー・ヘップバーンは唯一無二の西部劇でレイチェルを、
 アリダ・バリは名作『第三の男』でアンナを、
 そしてジュリー・クリスティーは『ドクトル・ジバゴ』の悲しいヒロイン
ラーラを演じ、そのテーマ音楽は聞く人の胸をゆさぶりました。


第一話 レイチェル
  ライオン
 情緒学級のプレイ室にビニール製のトンネルを引き伸ばして、レイチェルと私はその両端に座った。トンネルという伝声管を通して、手拍子遊びをやろうねという設定だ。私がポンポンと手拍子を打つと、レイチェルがポンポンと応ずる。ポンポポポ・ポンポポポと調子よく応じてくる。
 レイチェルは小学四年生の女児で、場面かん黙治療のためにこのT市内小学校の情緒学級へ通級して三年目になる。私がそこへ赴任した昭和五十年代初めの四月に、先輩の担任から「ひとつこの子に取り組んでごらん。」と預けられてもう半年になる。レイチェルは利発で茶目っ気の多い女の子だ。ところが、ここへ初めて来た当時は、一歩動かすにも背中を押さねば動かなかったとのことだ。だが私が預けられたレイチェルは、顔立ちも柔和で愛らしく、その当時からみればずっと柔らかくなっていた。
 そういうことだから、私が何かしらの設定をしようとしていると、その意図をサッと見抜いて自分にとってもっと楽しいように室内のいろいろな備品を持ち出して設定に変化を加える。私が熟年のやり方でやると、違うよこうやればいいのよというばかりサッとやってみせる。だが全く無言だ。場面かん黙についてしかるべき本を読むと、声を出させることを焦ってはならない。要するに身体から出る「音」には「声」の外にもいろいろある。例えば手ばたきだし、かかとを床にドンドンとならすのも「音言語」と認めてやれ。それから何んと、放屁(ほうひ、おならのこと)という方法もあると書いてある。理屈の上ではそうだろうが、場面かん黙は少女に多いというのに、「ブーピースー」とやるわけにもいくまい。どうも学説なるものは、しばしば常軌を逸する。それにしても、おならも伝達の一種とは学術的な格が上がったものだ。
 なるほどということで、レイチェルと手拍子ゲームをやってみようと思いたったわけだ。だが、こんなゲームはレイチェルには教師の意図が見え見えというものだ。実際場面かん黙の子供というのは「私はそんな手に引っかかって声を出すほどうかつじゃないわよ。」との距離をおいてこちらを見ているから、この応対は神経が疲れる。この手拍子ポンポンはもう何回もやっているから、レイチェルにも私にもあきあきだ。
 それではと、私はトンネルに向かって「ウオー」と吠えてみた。するとトンネルの向こうからレイチェルの「ウオー」という声が返ってきた。通級して初めての発声だ。
「やった。」という感じだった。だが少年のような声だ。この低い声を恥じて黙っているのかなと思ったが、その疑問はひとまず脇へおいて、レイチェルとライオンの叫び声のかけ合いをやった。だが初心者はすぐに欲を出す。ライオンができるなら次は犬だとワンワンとやってみたがレイチェルは応じなかった。今日はライオンで充分と隣室へ行くと、
「五藤先生、やりましたね。」と先輩が満面の笑顔で迎えてくれた。確かに、これは赴任以来初めての白星だ。
「お母さん、家でもあのような声なのですか。」と尋ねると、そうだとのことだ。
「声が低いので話すのが恥ずかしいというようなことはありましたか。」
「そういうことではないと思います。それに今の年齢になれば気にもなるでしょうが、小さい頃はそういうことは気にしませんもの。それでも幼稚園(五歳)から話さなかったですから。」

  インターホーン
 ひとまず頑固なかん黙の口をこじ開けるのには成功したかに見えたが「ウオー」以外には広まらなかった。母親はスラリとした長身のスタイルなのに、レイチェルは小柄だ。おそらく同学年生の中では小さい方から一・二番だろう。だがプレイの動作は、以前にもまして活発だ。そしていろいろと茶目っ気ぶりを発揮する。最初の「ウオー」は個別指導の時だったが、小集団の中でも「ウオー」が出るようになったから一歩前進というものだ。小集団というのは、特殊学級児童との交流だから、例えばカルタ取りをやっても何をやってもレイチェルがトップになる。字ふだ読みの私が少し離れて、「絵ふだを取った人は、大きい声で名前を言ってね。」と注文した。
「ハイッ、取りました。○○でーす。」と特殊学級の児童が大声で応じる。レイチェルはその子たちより多く取っているのだが、無言だ。
 学級にインターホーンがあった。二つでワンセットになっていて、それぞれコンセントにつなぐと別室との会話ができる。それをカルタ取りのプレイ室と隣室の事務室へ置いた。マジックミラーでプレイ室の様子を見ながら字ふだを読んでみた。するとレイチェルは、そのインターホーンに激しく飛びついて「取りました。レイチェルです。」と叫んだ。
「良い設定だね。子供が少しずつでも良くなってきているのを見れば、親はここ(情緒学級)へ連れてきたがるものだよ。」と先輩が言ってくれた。
私もそのゲームに交じった。私がいる場でも声をだすだろうか。隣室での字ふだ読みは母親に頼んだ。字ふだが読まれるやレイチェルは絵ふだめがけて飛び込んだところ、相手の男の子とゴキンと激しく頭をぶっつけた。相手のひるむすきに絵ふだを奪ったレイチェルは、次の瞬間インターホーンに飛びついて、
「取りました。レイチェルです。」と大声で叫んだ。私と一緒の場で大声で叫んだ。ワンステップ上がった。だが欲張りは禁物だ。あと二〜三回これを繰り返して、その次はインターホーン抜きでやってみよう。

  テリトリー
 この三年前に、私は前任校の中学校特殊学級で場面かん黙の生徒を担任していた。その少女は知恵遅れを伴っていたが、家と家の周辺では話をするという点では場面かん黙の定義にかなっていた。発熱したその子を車で送っていったことがある。学校を離れてもう少しで彼女の家という地点まで行ったころ、
「先生、あの人私をいじめるんだよ。」と口を開いて男子生徒の名前を次々にあげた。家につくと、
「お母ちゃん、先生がきたよ。」と大声で呼んだ。逆はまた真なりや否やと実験をしてみた。朝、家に迎えにいって学校へ向かった。彼女の話題はこの日も「あの人私をいじめるんだよ」だったが、ある地点まで来るとその話がピタリと止まった。先日とほぼ同じ地点だ。なるほど話せるテリトリーがあるのだな、と見当がついた。自分の家を拠点にして、このへんまでは大丈夫というテリトリーを本人なりに決めているようだ。そのテリトリーが広い場面かん黙児は、学校敷地内だけを「かん黙」の「場面」とする。反対に狭い子供は、自分の家の外全部を「場面」とする。この「場面」の狭い広いの違いは、その神経症状の強弱によるのだろう。だがその外に、どうやら本人の「油断」にも関係あるようだ。この知的に障害をもつ生徒に比べるとレイチェルには油断がない。

  研 修
 その年度に茨城県に初めての情緒学級がT市内小学校に開設されたとの噂が郡部の学校にいた私の耳にも届いた。参観を申し込むと、どうせ来るなら一日フルタイムの研修をしたらよいだろうとの回答を得て訪ねた。同担任は、私が担任する知恵遅れを伴う場面かん黙との対応のあれこれを教示してくれたが、そのマニュアルは分かり易く、そして実際的なものだった。
 先生がやったように家にいってたっぷり話すのはよいことだね。家で先生と話せるなら上々だよ。それから電話で話してごらん。その子なら電話で話してくれると思うよ。そして学校でも先生と二人っきりの場があれば話すかもしれないね。みんなの前で話さなくても、あんたは先生とお話できるもんね、という了解をつけてやることだよ。とにかく、そういう段階を経ないで、いきなりみんなの前で話させようとするのは残酷だよ、というアドバイスだった。本人を見たわけでもないのに、その一つ一つがそれからの彼女の指導に当たっていた。そして彼女は中卒で母親と共に市場へ働きにいったが、そこのおばさん達と陽気にしゃべっているそうだ。
「学校でしゃべらなかっただけなんですねー。」
と母親がほっとしたように言った。なるほど、彼女にとっての学校とは、そういう場だったのだ。この経験を通して、私は学校という場が、特定の子供の神経と精神にかなり負担を強いる場であることが分かった。
 ところで、「発達の遅れ(知的障害)を伴っている子供のいわゆる《場面かん黙》的状態は、通常の場面かん黙とはいえない。」との所見を二・三の書物で見たことがある。確かに、重度知的障害児の中には自分の家でだけ二・三語をつぶやく子供がいるから、そういう子供は除外するというのは分かるが、軽度知的障害児まで除外する必要はない。現に、場面かん黙はボーダー・ラインの児童に多く見られるという体験は共通している。そういう我々の経験によって裏打ちされた結果というものは大切にしたいものだ。ところが「学説」とか「定説」とかを持ち出されると、ビクリと一歩退くというアカデミック・コンプレックス(アカ・コン)が我々教師にはある。マザ・コンは女房の側に立てないので女性に嫌われるが、アカ・コン教師は子供の側に立てない。ここに紹介した中学校の場面かん黙少女は鈴木ビネーIQ六十ほどの知的障害をもつ少女だったが、同程度の知的レベルの生徒はみんな冗舌(じょうぜつ)だ。やはり彼女も場面かん黙そのものだ。

  相 撲
 さてレイチェルだが、私がいる場でインターホーンにあれだけの大声が出せるのだから、インターホーンなしの普通のやり方のカルタ取りをやってみようと思った。みんなで丸く座って、字ふだ読みのお母さんは少し離れてね。ところが失敗だった。特殊学級の子供達は取った絵ふだを手に自分の名前を大声で叫ぶのだが、レイチェルは素早く取るのに黙っている。ガックリ。だが予想が甘かったという外ない。複雑な場面かん黙の糸のもつれがそんなに簡単にほぐれるものではない。レイチェルにはそれなりの理由があるのだ。やはり、インターホーンに向かって言うという手続きが必要なのだ。「とすると?」ということで、隣の部屋ごしにインターホーンでの会話をやってみた。
「もしもし、あなたのお名前はどなたですか。」
「レイチェルですよ。」
「私が誰だか分かりますか。」
「五藤先生でしょ。」
「そうです。ところであなたのお誕生日はいつなのか教えてくれない。」との会話を仕向けた。やはりそうだ。相手と自分との間に、ワンステップの緩衝が必要なのだ。この関門もパスだ。次は、レイチェルの家にいったらしゃべるかどうかだ。
 家庭訪問をした。
「昨夜から大騒ぎなんですよ。明日は五藤先生が来るっていうので。」と歓迎された。レイチェルが帰宅した。ランドセルをドタッと放り投げると、ガバッと組ついてきた。相撲だ。
「なんですか。着替えもしないで。」と母親に言われておおいそぎで着替えると再びガバッと取っ組んできた。
「よしっ、次は柔道だぞっ。」と仕掛けると、寝わざにもちこんできた。そしてお菓子を運ぶお茶をつぐ。だが無言だった。楽しい時間だったが、少々反省もした。今日の訪問は、自宅を訪ねた私と話ができなかったことを、レイチェルに確かめさせただけではないか。これは、私のあせりという外ない。素人はやはり、相手の痛みに鈍感だ。

  担任と
「レイチェルは話をしないだけで、その外の学習活動は全部ほかの子供と同じにやっています。体は一番小さいのですが、動きは活発で、学力は上の部です。私はこういう子を担任するのは初めてなので、参考書をあさって場面かん黙だということを知りました。そこで、その治療方法を知ろうとしたのですが、そこまで書いてある本は私には見つけられないのです。まあとにかくその状態を受容することだと書いてありましたので、それだけをしっかり自分に言い聞かせているんです。」
 確かにこの担任のいう通りだ。状態の説明はくどくど書いてあるが、その治療法についてはえらく歯切れが悪いのが通例だ。つまりその本の著者にも分からないからだ。何によらず、本当に分かっていれば人は具体的に説明するものである。ところが、分かっていないと、といって説明を省くわけにもいかないので、説明は限りなく抽象的になり何をいっているのか分からない文章になる。こういう文は読まないほうがいい。ともかく担任がその状態を受容しようといってくれたのには安心した。

  しがらみの外へ
 この状態のままレイチェルは六年生になった。このまま中学校へいっても、あと三年場面かん黙のままで過ごすことになる。先の中学校で担任した遅れのある場面かん黙児は卒業して市場へいったら、その日からおばさん達としゃべったということだ。「あの子はしゃべらないんだよ」との周囲との《しがらみ》から脱したからだ。公立小学校と中学校はいわば隣の関係だ。小学校のしがらみ(人間関係)をそっくり中学校へもっていくから、そこに切れ目がないの。とすると、レイチェルも、今彼女を取り囲んでいる《しがらみ》から連れ出せば話すようになるのではないか。
 だからレイチェルの同級生が一人もいかない中学校へ進学させればよいのだ。もしレイチェルが性格的に弱々しければ、こういう冒険は禁物だが、レイチェルならかえって開放感を得るのではないか。やっと平成六年度ころになって、文部省は「いじめ」対策の一つとして、他学区への入学も許容するとの方針を出したが、この当時はそういう了解はなかった。だから、指定の公立中学校以外となると私立中学校へいくしかなかった。
 母親と練りに練った。とにかく本人の意思を確かめるために、その学校を見せることが先決だ。学力の点では心配ない。
「でも、先生、あの中学校の入試には面接もあるんですよ。」
「なーに、大丈夫です。本人に入りたい気持ちがあれば、面接はちゃんとやりますから心配ないですよ。」
とはいってみたものの、一か八かの賭だった。しかしやはり子供は信用するものだ。見事合格した。入学式の呼名には、低い声だがちゃんと返事しましたとの連絡が母親からあった。
 それから一か月というもの母親と私は息をひそめて、担任からの、
「お宅のお嬢さんは、学校で口をきかないんですが‥」との電話が、今日あるか明日あるかと怯えていた。
七月になり我々はやっと愁眉(しゅうび)を開いた。夏休み前の保護者面談の日に、母親は何食わぬ顔をして担任に会った。レイチェルが場面かん黙であったことを、その学校の誰も知らなかった。

  便 り
 そしてレイチェルはその学校の高校・短大と進学した。それから何年か、茶目な暑中見舞いと年賀状が届いた。いつの間にかそれも途絶えたが、それはレイチェルが豊かな精神生活を送っていることの証明でもある。

第一話 終わり


第二話 アンナ
  不可思議
「先生、早速ですが、情緒障害児がいるんですよ。」との話だ。昭和五十年代の末、T市で二番目の情緒学級がF小学校に開かれたので、私はそこへ転勤して担任になった。
「私の学級の女の子なんですが、全くしゃべらないんです。幼稚園のときからしゃべらなかったそうですよ。ところが家では人一倍おしゃべりなんですって。女の子二人で三つ下の妹がいるんですが、その妹としゃべりまくっているんだそうです。」
 ちょうど校長教頭や教務主任が居合わせたので、ひとしきりその話になった。この人達には「家でしゃべっている」ことが何とも不思議なようだった。
「ずうーと前に私が勤めた学校にもいたよ。六年間ひとこともしゃべらなかったんだが、それが同窓会で会ったら何と、向こうからペラペラとしゃべりかけてきたもんだよ。どうなってんのかね。」
 それがつまり「場面かん黙児」というのだ。この女の子アンナは本校に入学して三年目になった。ところがこの二年もの間、この学校の職員はアンナの状態について何も学習してこなかったということを暴露している。児童心理学関係の分厚い図書は職員室にあるのに紐解(ひもと)かれなかった。しかし、性急にアンナの様子を説明するより、あと少しその様子を不思議がってもらい、頃合をみてレポートにまとめて読んでもらおうと思った。

  形 成
 幼稚園にアンナの場面かん黙の形成過程を尋ねにいった。入園当初は特に気づかなかった。しばらくして女の子にしては無口だなという印象をもつようになった。だが、そういうことはままあることだ。ところが夏休みあけの運動会の練習の頃になって、口もきかず練習にも参加しなくなったことに気づいた。お絵かきでも何でも本人の利発さは承知していたので、とにかくなだめて手を引いて運動会は終わった。次第に慣れてくるどころか、口と身の硬さはますます高まっていった。だが欠席はしない。その担任は自分の指導がまずいのかとしきりに気にしていたとのことだ。そして小学校へ入学した。先のレイチェル以来、場面かん黙はこれで五人目くらいなのだが、この形成過程には共通点がある。幼稚園や保育所の集団の中へ入ってから無口になり、そしてかん黙状態になっていく。「この子は人前で話をしたがりませんから」という親からの伝達はない。家では普通にしゃべっているから、親は場面かん黙の要因がひそんでいることに気づかないのだ。 
 ところが集団に入ってから次第にかん黙状態が現われてくるので、その原因はもっぱら指導のあり方に探られる。いくらおしとやかな担任だって個人や集団を大声で叱ることはある。蛙の面(つら)に小便ではないが、たいがいの子供はビクッと一瞬首をすくめるが次の瞬間には忘れてしまう。美人なら美人なりに、
「あの先生には、美人にありがちな険があるからねー」といわれるから、担任はどうにも抗弁しようがないのが場面かん黙の形成過程だ。もともと不安の閾値(いきち)(或いは垣根といってもよい)が低いアンナにはそれがズンとくるのかもしれない。それに先生のお叱りがなかったとしても、集団それ自体が葛藤や軋轢(あつれき)の温床というものだ。
「しかし先生、アンナはそんな弱い子じゃないんですよ。弱いどころか男の子以上に乱暴で、アンナになぐられて泣いた男の子は何人もいるんですよ。」
分からなくなってきた。しかし、アンナは幼稚園に入る前から場面かん黙だったのですよ。しかしそれまでは表面化することはなかった。なぜなら、その「場面」がなかったからです。その担任だった先生には気にしないように伝えてください。

  硬 直
 さて、三年生のアンナは担任を悩ませていた。登校班で登校してくるが、なぜか黄色帽子を手に握っている。昇降口に直立したまま一歩も動かない。担任が手を引いて教室へ押し入れるが着席をしないで直立したままだ。肩を押して座らせる。すると座ったままでいっさいの学用品を出さない。本を出してページをひろげてやる。まるで魂が入る前のピノキオ人形の関節を動かすようだ。手をあげない、ノートもとらない、そして給食も食べない。パンをちぎって口へねじこんでやるとほとんど噛まないで飲み込む。もちろん図工や音楽はやらないし、掃除もやらない。体育では着替えさせてやると運動場へは出る。準備体操では体育帽を手にギュッと握ったまま直立している。全校体育のときには、アンナ一人がポツンと立っているから、いやでも全職員の目につく。レイチェルとは違ってはるかに手強い。情緒学級ができたんだから、さあ何とかしてみろ、と全職員が見ていた。赴任当初から重荷を背負い込んだもんだ。
「一年生のときの担任は相当頑張ったんだがなー」という話だ。アンナの入学以来の経過を尋ねる私に教務主任が回答した。
「とにかく家では普通に話をしていると母親がいうんだから、学校でも話せるはずなんだよ。だからあの先生は一生懸命やってみたんだ。とにかくハイという返事だけでもさせようとしたり、一行だけでもいいから本を読ませようとしたり、いろいろやったようだね。それでも駄目なようだから、教育相談に行かせた方がよいと私がいったんだが、行かせたのかな。あのお父さんていうのは、頑固で昔気質(むかしかたぎ)のところがあるからね。だが母親がもっとしっかり自覚して、学校でも家と同じように話せといってくれないとね。」
 なるほど、アンナの場面かん黙は学校によって強化されたわけだ。そういえばレイチェルの担任は、「仕方ないと思って、とにかく今の状態を受容することにしています。」と語ったか、それぞれの素質の違いはあるとしても、取り扱いによってこんな違いが出るものかと思った。場面かん黙は、それ自体が不思議な症状だが、重ねて不思議なのは、そんなに緊張を感じるのなら明日にでも欠席しそうなものだが不思議に欠席しない。その理由は「かん黙」でいるという安全弁があるからだろう。だから、その安全弁がいじられると欠席する外なくなる。
「先生、そういうわけですから、当面出席しているということを大切にした方がいいんじゃないですか。」と担任に説いた。担任は納得した。そうね、こうしたのは私の責任じゃないんですから。それにあの様子で登校拒否でもされたら、もうどうにもならないものね。この担任は、私の情緒学級八年の経験を一応評価した。それに私もこの間に年をとって、この学校では上から数えた方が早くなってもいたから、納得してくれたわけだ。なにぶんにも、学校という組織は、管理職二人を別格として、あとは鍋ぶたの教諭という同格身分だから、そこでは年齢がものをいう。ひとまず、その納得を得て保護者との相談のつなぎを探った。

  家 柄
 アンナの家は、この界隈では音に聞こえた老舗(しにせ)の名門だ。その豪邸は付近の地理案内の目印になるくらいだったから、私も赴任前から知っていた。家族は、祖母と両親と三歳下の妹の五人家族だが、数人くらいの店員がいて絶えず人の出入りのある家だ。祖父は二年ほど前に亡くなっていたが、市の商業界の重鎮として知られた人だった。その家の嫁、つまりアンナ母親は、財産にも地位にも恵まれた家の二人の娘の母親になったのだが、皮肉なもので跡取り息子を渇望する家ほど恵まれないものだ。だからもう生まれそうもないと分かった時点から、アンナは婿取り娘として期待されることになった。
「でもあれではねー、お婿さんがくるかしらねー。」と年配の担任は早くもその心配もしていた。
 ところで私は担任を通して、このような子供の指導の経験があるので何かしらの役に立てるかもしれないと保護者に伝えた。担任はアンナの硬直ぶりに神経が疲れきっていたので、家庭訪問をして勧めた。
「先生、お母さんとお婆さんに会ってきたんだけどね、あのお母さんはお婆さんの許しがなければ駄目なのね。まあ大かたの予想はしてましたけどね。それでお婆さんがいうには、孫のことは他人様のごやっかいはいただかなくても結構です、ということなのよ。あのお婆さんを動かすのはちょっと無理だわね。」この話は教務主任や教頭にも伝えられたが、同家の在り方を知っている両者は、「それじゃ駄目だな。」とあっさりあきらめた。
 そして九月の運動会になったので担任は気づかった。開会式に続く全校体操で、アンナ一人がポツンと立ちん棒になるのが参観者全部から見られる。だから見学席に戻したいと。しかし、開会式だけやらせておいて、そこからはずすわけにもいくまい、というのが管理職の意向だった。こういう判断は難しい。どちらをとっても批判されるときは批判される。だが私は敢えて一人ポツンが必要だと思った。というのは、それを祖母に見てもらわねばならないからだ。運動会当日、私は会場係の仕事にかこつけて、アンナの祖母と両親の姿を観覧席に捜した。いたいた。二枚重ねの敷物の上にお弁当と魔法ビンが置いてある。祖母はそこでじっくり見るはずだ。
 果たして全校体操で、アンナは体操帽を握りしめたまま立ちん棒だった。続くどの種目にもアンナは児童席から動こうとしなかった。空席になった児童席にアンナがポツンと座っていたが、その姿もまた目立った。 運動会が終わったので、担任へ提案してみた。
「先生、今度はいくらか違う反応があるかもしれないから、もう一度家庭訪問してくれませんか。」
担任は、私もそう思うと訪問したが駄目だった。
「こんなに長引かせてしまっては、あの子はもう治らないよ。そうでしょう、五藤先生?」と教務主任がいった。難しい質問だ。早くから指導をすれば場面かん黙が治るのかというと決してそうではない。皆の前で話すという点は、最も難治(なんじ)な部分で、そうなるのはまず期待できない。せいぜいその症状を進行させないくらいしかできないものだ。つまり「場面かん黙」を「場面かん黙」だけに留めておくことが大切なところだ。ところがアンナは手を添えなければ座らない、絵も字も書かない、運動はしない、給食は食べないと二次障害にまで及んでしまった。明日から私の教室へきたとしても、どこから手を打っていいのか分からない。指導してもどうにもならないとなると、私の情緒学級担任の経験が疑われるというものだ。祖母が相談に強固に反対していることは、案外私の立場のために有利に働いている。

  げんこつ
 四年生になるとアンナの妹が入学してきた。一年の担任が驚いたといってきた。
「先生、アンナですけど、きかないのねー。妹をいじめたというんでしょうけど、一年生の男の子をげんこつでゴツンとやるんですって。あれのねえちゃんにやられたっーて男の子が何人もいるのよ。」
こいつは面白い。幼稚園の先生もそういっていた。そういえば、アンナの顔立ちからはきかなそうな一面が伺える。アンナの顔は、最も整った少女の顔というテーマで彫られたような顔だ。その上表情を動かさないからより以上にきつく見える。体格は肩幅が広く中肉中背なのは母親似だ。笑いよりも、まず断固たる行動が先に出るという印象だ。今度の担任はずっと若い女教師だがアンナの学校生活には何の変化もなかった。だが若いだけに私への相談が頻繁になってきた。何よりも、アンナの学力の見当がつけられないのが担任の悩みだ。なにしろ学校ではただの一文字も書かない。だが家でやっているのを母親から聞けば、優に通常のレベルにはあるとのことだ。
「それで充分ですよ。病院で二年も三年も過ごしている子供と比べたら、アンナは毎日学校の勉強を少なくとも聞いているんですから。」
 その担任が笑いながらやってきた。
「今時ですから、男の子のくせになんていっちゃいけないのかしら。」
「アンナをからかう男の子がいるんですよ。そしたらその一人がゴツンとやられて泣いているんです。私は、あんた男の子でしょっと、やられた方を叱ってしまったんですけど、よく見たらコブが出ているんですよ。きついですねー。」
「一番弱い男の子ですか。」
「いいえ、弱い子はもともとアンナを用心してますからからかいません。普通程度の子なんですよ。調子に乗りやすい子なので、いい気になってからかっていたら、いきなりゴツンとやられたっていうんです。」
 担任は内心うれしそうだった。男子どうしとか、男子から女子への暴力だったら、いきさつに関係なく殴った子の親から被害者宅へ詫を入れさせるのだが、どう思いますかとのことだ。
「それより、先生はどう思うんですか。」
「オホホッ、いいんじゃないですか。黙ってて。」
私は心から同感の意を表した。それに詫を入れさせたら事がばれて、女に泣かされるとは何事だっと、もう一回親父に殴られますよ。男の名誉のために黙ってやってください。いいニュースだ。とにかくアンナは精神的に落ち込んでいない。

  保護者面談
 そしてまた運動会がきた。祖母と両親はまた立ちん棒のアンナを見た。一週間後、担任を通してアンナ家から私への相談の申し込みがあった。ちょうど掃除機を使っている時、担任に案内されたアンナと母親が来た。
「アンナ、先生は隣の部屋でお母さんにお茶を入れるので、この掃除機であとちょっと掃除してくれる?」
と頼むとアンナはうなづいた。母親はしきりに一年前から来なかったことの言い訳けをしたが、その事情は分かっているので軽く聞き流した。
「アンナ、ごくろうさま。もう少しお母さんとお話するから、あなたも紅茶とクッキーをどうぞ。」
とテーブルに置いて離れた。
「先生。あの子クッキーをいただくでしょうか。」
と母親が声をひそめた。
「それが見たくてね。食べてくれれば私の仕事の半分は終わったも同然です。」と平静をよそおったが薄氷を踏むとはこういう心境なのだろう。十分ほどして、「おまたせ。」と思い切りドアを開けると、紅茶もクッキーもなくなっていた。翌日、母親から豪華なクッキーの詰め合わせが届いた。母親も信頼してくれたようだ。さてスタートだ。

  遊 び
 情緒学級の課題は、そのほとんどが知的障害の子供達のために用意してあるから、アンナにとってはもの足りない。毎日一校時の指導時間をとったが、発達のよい四年生に何をしてもらったらよいのか少々困った。アンナは、自分からは動かない。だが、例えば体育的課題を与えると、マットでござれ鉄棒でござれ身のこなしがすばらしい。縄跳びの技量は優に上の部だ。ドッヂボールは豪速球だから受ける私も油断できない。お茶のあとでパズルやろうよ。これの処理もアンナには簡単だから私とのタイム競争にした。
 このところ情緒学級へは、校内の五年生の知的障害の男子が来るのだが、レベルが違うので一緒の活動はどうにも無理だ。しかし、アンナは私と二人よりも、その子がいた方が気楽らしい。では「宝さがし」ゲームをやろうよ。一人が財布におもちゃ紙幣を入れて、隣のプレイ室へ隠して他の二人に搜させるゲームだ。まずその男の子に隠させた。するとアンナは、ズルをやってドアの隙間から覗き見して「フッ、フッ、フッ」と笑いをこらえた。アンナの目には、一年先輩のこの子が知的に劣っていることはすぐ分かったようだ。その子がどんなに工夫しても手の内は全部見すかしていた。だが軽蔑を表に表わすことはなかったし、彼が困っているとさり気無くそっと手を貸してやったりした。ゲームで激しく体を衝突させたときも「あらごめんね」との笑顔を見せた。個別の時間には見られない表情だ。
 アンナ家の商売で扱っている商品の余り物は、学校の教材を作るのに最適な材料なので私がもらいにいくことにした。屋敷の駐車場に車を止めると勝手場に祖母の姿が見えた。近づいて来意を告げると、私が教員であることに気づいた彼女はハッと辞を低くして、
「先生、どうぞ玄関口の方にお回りくださいませ。」といった。なるほど、これが格式というものだな。

  普通の人に
「アンナ。給食はこの部屋で先生と食べない?」
と尋ねるとアンナは首を横に振った。
「それじゃ、あの○○君(五年生の男の子)と先生との三人で食べない?」と聞くとウンとうなずいた。
三人での食事が二週間ほど続いた。
すると、母親が教室へ来た。
「先生、アンナが自分の教室で給食を食べたいといっているのですが‥‥。○○君には折角一緒に食べてもらっているのに申し訳ないと思うのですが。」
ということだ。昨日その子の家を尋ねて礼を述べてきたとは、行き届いた挨拶だ。
「それに先生。アンナが昨日いうにはですね、私はあしたから普通の人になるよ、というんです。私は、ああそうと聞き流しておいたのですが、これはどういうことなんでしょうね。」
 予想もしていなかったアンナからのサインだ。ここはひとつ冷静にならなければならない。
「ああそうと相槌(あいづち)だけにしたのは良かったですね。どういうことって、その言葉そのものなんじゃないですか。でもそこに飛びつかないようにしましょう。お婆さんはそのことを御存知ですか。」
「はい、今朝話しておきましたから。」
「何かおっしゃっていましたか。」
「一生のうちには、いろいろあるものだよと言ってました。」

  適応へ
「普通の人になるよ」とのメッセージは、母親から直接担任へ伝えてもらった。
「面白い表現ですねー。」と担任は感嘆した。
「どんな気持ちなんでしょうね。」
「例えばですね。私のようなヘビースモーカーがピタリと禁煙するのは、まず生理的に容易でないんですが、もう一つ容易でないのは環境調整なんですね。というのは禁煙したりすると、おやあんたも命が惜しくなったのかねー、なんてからかわれるんですよ。ですからいろいろなぎごちない言い分けをしなければならないんです。アンナにしても同じで、明日からスッキリ普通の人というわけにはいかないと思いますよ。彼女なりの脱皮をしていくには相当ギクシャクするんじゃないですか。」
 この若い担任には看護婦さんの資質を感じる。彼女は患者が、蟻の一歩ずつの健康を取り戻していくのをじっと見守ってやる忍耐と寛容を備えていた。初めに教室へ入ってランドセルをおろして自席に座った。教科書を出した。そして給食を食べた。だが声は聞かれなかった。そして冬休みになった。

  スプリンター
 三学期の運動といえば縄跳びだ。アンナには全校縄跳び大会に出場させたかったので情緒学級では縄跳びの練習を勧めた。だが四年間も運動会で立ちん棒だったアンナが、いきなり全校縄跳び大会で跳べるとは思えなかった。
「最初の持久跳びのよーいドンでは動かなかったのです、それで私が、ホラッ跳んでっと声をかけると跳び始めました。あとの種目は全部すんなりやりました。」との担任の報告があった。
 この日のアンナの跳び方を見ていたのは日体大出身の本格派の体育主任だった。
「五藤先生。アンナにはスプリンターの素質がありますね。」と彼がいってきた。
「えっ、スプリンターってなんのこと?」
「短距離走のことですよ。アンナはもらいましたよ。」彼は大胆だった。その週のうちに、陸上の練習をやらないかとアンナをグランドに誘った。アンナはこの誘いにすんなり乗ってトラックを自然に走った。少女にはふさわしい表現ではないが、肉体がまず溶け出したという感じだった。まだ肝腎な「話すこと」には至っていないが、その姿を見て職員の誰もがアンナの復活を確信した。この小学校に情緒学級が設置されて二年目になるが、アンナは私に白星をプレゼントしてくれた。

  僕(ぼく)
 五年生になった。
「女の子なのに、僕っていってるんですって。」との話題が職員室で広まった。アンナのことだ。五年生になって情緒学級での指導は最早無用ですと母親に伝えてから、私にとってもアンナの様子は間接的に耳に入るだけになった。「僕」の情報は場面かん黙児を知っている者にとっては奇異なことではない。この子供達はしばしば激しい表現をするものだ。女の子が「僕」とか「俺」といい、母親を「君」とか「お前」といったりすることは知られている。真意は分からないが、なんとなく分かりそうな気がする。欝積(うっせき)した気分を表現するときに、充分な表現力があればドストエフスキーの作品に登場する人物のように大演説をぶつだろうが、普通の人間はそうはいかない。だから日常の言葉の「私」をウッと強めて「僕」というのだ。
 とにかく本人にとっては、そうせざるを得ない心理的欲求に迫られてのことなんだろう。このことはアンナの祖母と母親には、一過性のことだから受け止めてやってくれと充分に説明しておいた。だが職員には説明しておかなかったから「へー、驚いたね。」との話題になったのだ。こうしてアンナは学校で話し始めてきた。 隣町の運動公園で地区の陸上記録会があった日に、私も選手の輸送係になったのでアンナと三人の選手を車に乗せて運動公園に走った。アンナ以外は六年生だが、体育主任の話では最高のスプリンターはアンナとのことだ。
「リレーではアンナの走りに全てがかかっています。アンナさえ良ければ優勝も期待できます。」とのことだ。車の中では、おしゃべりの他の三人に比べればアンナは無口だったが、先輩の問いかけにはちゃんと答えていた。その日の競技でのアンナの出来栄えは最高だった。体育主任が渇望していたリレーには優勝するし、百・二百でもアンナのダッシュは素人目にも際立っていた。次週の全校朝会で表彰状の伝達があった。
アンナは呼名されると他の選手と共に晴れやかな場に立った。あとはアンナの自然な脱皮を待つだけだ。

  制 圧
「あれじゃ、お婿さんがくるかしらねー。」との噂だ。アンナにはいつもお婿さんの話がついてまわる。
以前には、口もきかなかったからその心配だったが、今は男まさりの性格なのでこの心配になる。アンナは同学年の男の子たちに恐れられる存在だ。精悍(せいかん)な表情というのは、眉がきりりとした男の顔立ちに与えられる賛辞だ。女性の場合には硬質な顔立ちともいわれる。アンナの表情がそれだ。いずれにしても男の子たちには、「三歩さがってアンナの(本来は師の)影を踏まず」の方が無難だ。まだまだ日本文化では、女に殴られた男には文句の持っていく場がないことを彼等も承知している。アンナはその表情と時折振るうゲンコツによってあたりを制圧した。弱い男たちは、その分だけ「来た来た。オッカネー、オッカネー」と陰口を言い合ってしのいだ。
 場面かん黙児がその場面かん黙を脱皮するには二重の困難がある。一つは言うまでもなく、自分の精神状態の克服だが、もう一つは環境調整だ。「泣いた烏がヒョイト笑った」とのはやし言葉があるが、場面かん黙児がしゃべったらどれほどはやされるか見当もつかない。だからたいがいの場面かん黙児は、内面では脱皮を完了しても、地域同族集団の中学校を卒業するまでしゃべらない。中学校を卒業すればそのしがらみから開放されるから、中には中学校卒業式の帰り道でしゃべる子供もいる。
 だがアンナには腕力に裏打ちされたニラミを効かせて自分へのからかいを制圧する自信があった。だから「私は明日から普通の人になるよ。」との宣言ができたのだ。しかし、こういう子供は例外だ。
学力にはまったく問題はなかったし、それ以後アンナはナンバーワンのスプリンターとして、体育競技の栄誉を総ざらいして卒業した。
 その夜のPTAとの懇談会に招かれたが、気安く話せる人がいない場というのは気づまりなものだ。すると堂々たる体躯の父親が寄ってきた。
「五藤先生、始めまして。アンナの親父でございます。私はなにぶんにも不調法なもので、御挨拶にも伺いませんで。」との挨拶だ。いや、父親はそれでよいのだ。こういう問題があると、学校はその背景に父親の存在を探ろうとして、面談に呼び出したりするものだ。
息せき切って弁明に努める母親の側で、その父親が無言の行をしていると、教員は「父親としての存在が薄いね」と評価する。だが、そうでもあるまい。三船敏郎のコマーシャルではないが「男は黙って」サッポロビールだ。
 子供の何かしらの問題の場合、母親に「それで、ご主人はどうですか。」と尋ねると、苦労を一人で背負い込んでいるつもりの女房が亭主をかばうはずがない。「駄目なんですよっ。家の主人は」とくるのが自然だ。それを真に受けて「あぁ、やっぱりねー」と納得するのは短絡というものだ。しかし、だからといって本当に駄目親父がいることを否定するものではない。

  彼 岸
 地域の老舗だけにアンナ家の情報網は広いようだ。それ以後、「アンナさんのお母さんとお婆さんから紹介されたのですが‥‥」との相談が二・三続いた。
祖母と母親は、アンナが情緒学級で治ったと思っているようだ。それはそれでありがたいことだが、実はそうではない。アンナは、「普通の人」という向こう岸(彼岸)へ飛び越したいと、川幅を探りながら川岸で迷っていたわけだ。ちょうど、その流れの中に情緒学級という石があったということだ。彼岸へ行ってみようと石に足をかける意欲がなければ、渡れるものではない。アンナのきつい表情は、絶対に動かないとの意思を表わしていると感じていたが、彼岸へジャンプしようとする意思でもあったのか。まったく、子供は分からないものだ。アンナは中学校の陸上部に入ったそうだが、定めし相当の成果をあげていることだろう。
 その後また二・三年して、病気入院した私を母親が見舞ってくれた。
「いよいよ中学三年になるので、これからは受験勉強です。」
「なにしろ運動ばかりやっていたので勉強はさっぱりです。でもどこかの高校には受かるでしょうから、私達は気楽に構えています。また、あんなふうに戻ってしまったら大変ですからね。」
 毎日の検査疲れで精気に乏しかった私は、その心配に何気なく相槌をうったが、別れた後でハッとなって階段を駆けおりて母親に言った。
「お母さん。戻ってしまったら大変といいましたが、戻ることはありません。気楽に構えた方がいいですが、戻るという心配は御無用ですよ。」

第二話 終わり


第三話  ラーラ
  課 題
 ラーラはT市からかなり離れた町に住んでいる。その母親は車の運転をしないから、バスでこの学級へ来るには一時間半もかかる。だが、この母親は就学前はF幼稚園の「ひまわり学級」へ、そして就学後はF小の情緒学級へ、辛抱強くラーラを連れてきた。ラーラは、やはり幼稚園に入ってから、場面かん黙であることがはっきりした。
「ですが、そういえばその前から親戚とか私のお友達の家に行くと、お話しなかったですね。その頃は恥ずかしがりやなんだろう程度にしか考えませんでした。」と母親は後日語った。
 ひまわり学級での様子を引き継いでから、私の学級で受け継いだ。五十男が小さな六歳の女の子のプレイセラピイの相手をするのは傍目(はため)にもみっともないが、この「相手になる」ことについて、私は自己流の指導「哲学」をもっていた。
 というのは、教師というのは、教師そのものが子供と相対するのではなく、課題を中において子供と相対するものだ。つまり教師とは、子供にしてみれば単なる人ではなく、「課題を提供してくれる人」で、子供にとって大切なのは、教師その人がどうであるかより、その人が提供する課題の質だ。
 先日、ある幼稚園の障害児学級に招かれた。私を見るなり教室に入ってきた四歳の女の子にギャーと泣かれてしまったので、ひたすら物陰に隠れて観察した。折をみて、担任の先生と向き合っているその子の後ろ側から、小出しに教材を出していくと、その子はこっちを向いて次第ににじり寄り、そのうち私の膝にのって教材をいじった。
「さすが。先生は子供に好かれるんですね。」とその先生は言ってくれたが、正確にいうとそうではない。その子は、興味を感じた課題へにじり寄ってきたのだ。だから六歳の女の子を五十男が相手にしても、課題の質さえその子のニーズに合っていれば大丈夫だ。
 たとえてみれば、上品なレストランのオードブルよりも、煙ったい居酒屋のつまみの方が一杯の酒には合っているようなものだ。だから、教師はルックスや年齢にはほとんど関係ないと思いたい。これは我が家の二人の娘の反応を通しても明らかだ。娘だから担任発表の夜は、やれ禿(はげ)ているとか、いじわるそうだとか姦(かしま)しいが、そのうちに、その担任が何を提案するかに軽重がかかってくる。

  リラックス
 さて、ラーラはひまわり学級での活動をそのまま持ち込んできたから、対応に頭をひねることもなかった。場面かん黙のラーラは、教室へ来るなり自分のやりたいことを板書する。
  1、あそび
  2、おえかき
  3、あそび
 プレイ室の黒板には、たんざく型のカードが二十枚ほど張ってあって、そこに「おおすめ一品料理」が書いてある。いわく「バイキンマンたおし」「おじぞうさんにおだんご」「たいこにドン」「佐川急便ゲーム」などなど。
「これ、どーやるの?」との表情にこたえて、一つ一つ教えてやった。どのゲームでござれラーラには簡単だ。「知能はすごくいいですよ。ですから、こちらの(教師の)意図の裏側までパッとつかみますよ。」との引き継ぎを受けていたが、そのとおりだ。西部劇フアンなので、インディアンとの駆引きの要諦(ようてい)は承知している。ほんのチョッピリでも嘘があったら殺されるぞ、との注意だ。ラーラは、教師のわずかな仕種の裏側にひそむ奸計(かんけい ずるいたくらみ)を見抜く。だから、なんとか声を出させようなんて企みは無駄だ。
 もっとも、第一話で触れた知的にハンディのある子供には、その企みを細かなステップとして展開することもできる。それが成功すると、どの場面かん黙児にも通用するかのように思い込んだりするが、そうは問屋が卸(おろ)さない。
 場面かん黙児の指導案を見ると、共通して「いまだに発語がない」ことの自責の念にかられているが、参考文献を読むと、手順よくやれば治るとでもいうかのように書いてあるから誰もこう思い込む。だが、そこに書いてあるのは、「このような指導もありますよ」ということと、その指導をすれば「こうなるかもしれませんよ」ということに過ぎない。だいたい教師というのは、経験を軽んじて文献に頼りたがるが、これがアカデミック・コンプレックス(アカ・コン)というものだ。前にも言ったが、マザ・コンに限らずコンプレックスをもっている者は相手に好かれない。

  ぶたがくる
 一年生の国語の本の最初は「さるがくる」という面白い絵とお話だ。それをまねて「ぶたがくる」とのストーリーの十枚ほどの絵をかいてやった。
「ラーラ、おうちでお話を書いてきてね。」
母親には特に本人に一切任せるようにたのんだ。
「その点は大丈夫なんです。あの子は、やり出すとなると自分だけでやりたがりますから。」
すると、絵の状況をピタリとつかんだお話を書いてきたので、それを一年担任に見せて、文章力は学級のどのレベルにあるかを尋ねてみた。その担任は読んで目を丸くした。
「先生、これは相当なものね。本当に一年生なの。これだけ書ける子がうちの学級にいるかしら。それに絵の面白いところをちゃんとつかんでいるじゃないの。筋も通っていて、いいお話ねー。」と感心した。
 これ以後ラーラは時折、『うさぎのみみちゃん』とか、『こりすのりーちゃんの木のぼり』とか題する絵物語を書いてもってくるようになった。

  学校で
 ラーラは、場面かん黙だけに留まっていた。学校では、お絵かき、遊び、体育、給食、清掃、なんでもやっていた。歌は歌はないがピアニカを吹き、手拍子やタンバリンのリズム打ちもやる。ここがアンナとの際立った違いだ。アンナは入学後のこの時点で、体までコチコチになっていた。これはパーソナリティーの違いだけなのだろうか。しかし、二人の「場面かん黙」状態を、周囲がどう考え、どのような働きかけをしたかの経過も大きく作用していることは疑いない。まず家庭の対応だ。アンナ家は体面を重んじて四年生まで教育相談をしなかった。また、小学校では「熱心な」担任が、家では話しているんだから学校で話せないことはないということで「ハイ」と返事しなさい、「さようなら」というまで帰さないという指導をした。場面かん黙児には最も避けなければならないことだ。
 その点、ラーラの幼稚園はひまわり学級のアドバイスを受入れてきたし、両親もあせりを抑えてきた。一人っ子の三人家族だからまとまりがあった。それでもラーラの学校へ場面かん黙児の扱いについて早速連絡した。なにしろ場面かん黙というのは、家では話しているから親も担任もあせりを感じる。担任が「学校で話をしない」と親を責める。責められた親は、家では話しているのだから、学校で話さないのは学校に問題があるのではないかと担任を責める。責めの構図ができてしまうものだ。責められた学校は、家で話しているのに、学校で黙っているとはふざけている。「よし、俺が治してみせる」というような人が出てくる。そして、登校時に待ち構えて「おはよう」と口を開かせようとしたりする。

  担任へ
 ラーラの教育相談の報告を届けた。
「本児は場面かん黙児としては、私の今までの経験の中で最もよい状態にあります。多くの例では就学後、次第に緊張が高まって、すべての学習活動や遊びを拒否したり、身体が硬直して運動をやらない、食事をしないなど不適応が広がっていくものです。本児にその傾向がまったく見られないのは、本児の適応力の柔軟性もあると思いますが、それ以上に貴校での本児指導が無理なく適切に行なわれているからだと思います。
 これらの子供が幼稚園や小学校の集団の場に入ってから場面かん黙になるのは、集団での本人の失敗経験とか不適切な取り扱いによるというよりも、もともとその子供がもっていた症状が集団の中に入って初めて現われると考えてよいかと思います。本児の場面かん黙の形成過程を見ますとそのように感じられます。
 一旦そうなってしまいますと、その状態を改善するのは困難で、治そうとする周囲の働きかけが、かえって本人の緊張を高め、上記のように身体の硬直を高めて、一切の学習活動を拒否するようになったり、登校を拒否するようになることもあります。ですから、本児を把握するに当たっては、場面かん黙の状態は止むを得ないものと受け止め、二次障害としての緊張の高まりを防ぐことに重点をおいた方がよいと思います。その状態の受け止め方についても、《あなたは、お話さえするばよいのにね》というより、《あなたは、お話はしないけれど、何でもできるものね》と肯定的に解釈してやれば、本児の安心がふくらむと思います。
 これらの子供は、自分が受容的に受け止められているのを感じれば、小学校高学年から次第にその状態から回復してきます。しかし、《あの子は話さない》という周囲との関係が固定していますので、実際に自然に話すのは卒業まで待たなければならないのが通例です。そこまでの長期間、我が子の場面かん黙に付き合う保護者の神経の疲労もかなりのものですから、保護者を支えることも大切になります。
 当情緒学級の相談では、まず保護者の子供理解を重点にして支えていきたいと思います。本児に対しては、主に「遊戯療法」を試みていますが、本児は通級時には自分の予定をしっかり立てて、思う存分という感じで活動しています。この教室でも場面かん黙の状態ですが、それ以外の精神的な問題は感じられず、最もよい状態にあると思います。」 
 委細承知との回答があった。だが、担任が知りたいのは日々の具体的な取り扱いのことがらである。まず朝の呼名だ。それに本の順番読みだ。遠い学校なので電話で話し合った。
「先生、朝の呼名のときは、名前を呼んで『ラーラは元気ね』とあっさり言ってやってください。それから、本読みですが、ラーラの脇へいって先生が読んでやってください。その外のことでも、ちょうど喉を痛めて声が出ない子供を扱うように、あっさりサッと手伝ってやってください。そうしてもらった方がラーラには気軽です。そのことを、どうか外の先生方にもお伝えください。」 
 それ以後、年度がかわる度に、ラーラの取り扱いのハウツウを文書にして届けた。なんとしてでも「俺が治してみせる」という悪者が出ないようにすることが第一だ。だが、今日にいたるまでこの学校は、ラーラの神経を逆なでするようなことはなかった。

  失 敗
 七五三祝いの写真を見せてもらった。「鄙(ひな)にはまれな‥」というのは美人のことだが、ラーラが正にそうだ。その写真には、いくぶん顎をあげて自分の美しさを誇るかのようなラーラの主張が見てとれた。
 そのころから、ラーラは情緒学級での活動を自分で組み立てるようになった。プレールームの黒板に独特な種目名を書く。
 1,わなげかいもの
 2,フープでヒョイ
 3,なぞなぞどうぶつ
 どれも、ラーラが「おすすめ一品料理」のプレー種目にあきたらず自分で考案したものだ。ラーラは教室へ走りこんでくると遊びを開始した。自己流のプレイをどうやるのか口で説明しないから見ていると、こまめに走り回って場面を設定し、まず自分がやってみせて、「先生、分かるでしょ。」との視線を投げる。
非常に分かりやすい。そして「なるほどこういう遊び方もあったか。」と感心する。ラーラの時間は個別にしたかったが、通級児のローテーションの都合で複数になることもある。知的障害の子供は、ラーラの高度な設定への参加につまずく。そういう時、ラーラは巧みに妥協して自分のルールに固執しない。次はこれ、次はこれと、遊び心は吹き出すようだ。
 そのラーラが思わぬ失敗をした。黒板に文字ゲームを書いた時のことだ。書き終えるまで見ては駄目よということで、「目をとじて」と書いた。内心ニヤリとした私は、必要以上に目を手で固くおおった。チョークの音が止まってラーラが書き終えたことが分かったが、目をとじたままにしていた。「目を開けていいよ」と言えないラーラは困った。チョークでコツコツと黒板をたたいて合図している。その次は、かかとでドンドンと床をけった。それでも知らんぷり。そしたら私の肩に手をやってゆさぶった。これ以上目をとじているわけにもいかない。面白かった。だが、こんな失敗を繰り返すラーラではない。

  迷 い
 ラーラはこの日課の中に必ず「おえかき」の時間をとる。その絵は、ピンク色を主体にして数人の人物が大小さまざまにかかれている。なにかしらのことを表わしているのかと、「ラーラ、あなたはこの絵のどこにいるの?」と尋ねてみたが、「いいえ、別に」との表情でしかなかった。
 そのことだが、子供の絵柄とか絵の色によってその子供の心理状態を探ろうとする試みがあることは知っている。例えば、今までは赤とか黄色とかの明るい色の絵をかいていたのだが、このころ急にドス黒い絵になってきた。下の子が生まれたときと一致している。そうだ、このドス黒い色は、下の子に母親の愛情を奪われてしまったために、激しい愛情の渇望を表現しているのだと説明されると、いかにもそれらしく聞こえる。だが、別の見方をすれば、下の子が生まれるといえば、その子はだいたい三歳くらいになっているから、色を混色することができるようになってきた。そして、その年齢の子供が混色すればたいがいドス黒くなってしまう。
 このように、一つの理論によって子供の行動を説明すると、だいたいその理論の型にはまるから不思議だが、実はここが曲者(くせもの)でもある。内科的外科的疾病(しっぺい)のように、原因が医学的に突き止められるものと違って、心理的な問題は本当のところは誰にも分からない。だから、いつまでも仮説という宙ブラリンのもどかしさが続くのだが、それに耐えられないと、手近なアカデミック権威を借りてきて「エイヤッ」と片を付けたくなるものだ。一体どういうことなのかサッパリ分からないと迷っている教員の姿は、確かにみっともないが、御都合主義的な「型」のどこかに分類しようというあせりは禁物だ。学者ならともかく、しがない担任は子供と一緒に迷った方がよい。
 ところが、研究レポートを書く段になるとそうはいかなくなるから困る。原因も分からない、今の状態もどうにも解釈できない。まして、どうやって指導していったらいいのか、これまたさっぱり分からないのです、という文章をへどもど書いたら校長に叱られる。
「何かしら原因はあるはずだっ。それを考えろっ。」
(陰の声)それが分かれば苦労はないんですよ。
「どんな母親だ?」
えー、静かで、ていねいで、よく気がつく母親です。
「静かで、ていねいというのは神経質ってことだな?」
え?いやーまあ、そうとばかりは‥
「父親は?」
愛想がよくて、それで、もの静かで‥それで‥‥「つまり、男親としての権威に欠けるんだな?」
いやー、そこまでは何とも‥‥
「そういうものなんだよっ。つまりこの子にとって、その両親は父親母親としての存在が不安定なんだよ。それが原因なんだ。どうだっ。わしなんか子供を見なくたった分かるんだ。」
 こうして、その子の場面かん黙の原因が、担任が腹で思っていることとは関係なく論理的に仕上がる。
教育研究会に提出されるいわゆる「論文」の調理法は、コンビニで売っているパック詰めの弁当のようなものだ。とにかく人目を引かねばならないし、科学的に栄養成分が明示されていることが肝腎だ。そして論文の巻末には権威ある文献がズラリと並らばなければならない。教員はレポート書きも仕事のうちだから書くのはいいが、そこに書いたのは当たるも八卦(はっけ)当たらぬも八卦くらいに思っていた方がよい。案外、迷いから出た直感が子供を見るレンズになるものだ。結局教育とはそういうもので、借りた権威で解釈できるものではない。権威のうちはまだいいが、そこに権力が割り込むと事態は最早救いがたいものになる。

  そのままの適応
 中学年以降のラーラの通級は月に一回にした。
進級を重ねて、ラーラは場面かん黙のまま学校生活に適応していた。もとF小学校にいた人が校長になり、もう一人が教務主任になったので遠方なのに連絡はうまくいった。毎年度、体育はやってるか、リコーダーは吹いているか、給食は食べているかなどをチェックしてきたが、大丈夫ですとのことだ。ラーラは学力にはまったく問題はなく、そして非常に勉強好きだとのことだ。ラーラがこの学級へ通う必要性は次第に薄れてきた。
「最近は、この学級へ来ることよりも、勉強の方が気になるようです。」との母親の話に、
「そうだろうと思いました。そうあってもらいたいですよ。ですからお母さんこうしましょう。ラーラがこの学級を懐かしむようなことがあったらすぐ予約を入れてください。それから学校の創立記念日とか代休の日に来てもいいですよ。ラーラは大丈夫です。」
 この母親には、私が経験した場面かん黙の子供のことをすべて話してきた。
「例えば、中学生になってから相談のあったこの女子なんですが、小学校は場面かん黙のまま適応していました。ところが、中学校一年の担任が、毎日の連絡帳の末尾に『明日は、お話しましょうね』と書き添えたことから登校拒否になってしまったという話でした。そこで、この担任に会ってみましたら、母親が中学生になったのだから話せるはずだと担任に迫ったというのです。そこで担任も何とかしなければならなくなったというのが本当らしいですね。母親と担任の両方から押し潰されたということですね。」
「ですから、こういうリスクがあることを忘れないでください。ラーラが中学校へあがる時は、小学校からの引き継ぎに任せないで、お母さんが入学式前に担任と会うことです。私はこの三月で退職ですから直接のお役には立てませんが、事前に必ず連絡してください。そして辛抱してラーラを守ってやってください。」守ってやってください。」
「美人ちゃんほど、しっかり回復するといわれているんです。なぜかといいますと、ホラネ、男の子の目が集まってきますからね。それで乙女心にも、私はこうしちゃいられないわ、ということじゃないですか。その点から見ますと、ラーラほどピッタリの子はいないということですよ。」
  中学生になったラーラ
 五月になった。散歩がてら郊外の量販店の中をぶらついていたら「あら先生」と呼びかけられた。ラーラの母親だ。そういえばラーラはこの四月中学校へいったのだ。
「先生、しゃべってますよ。しゃべっているんです。担任の先生が心配していたがしゃべっていますから心配ないですって電話してくれたんです。」
「でも私は本当に大丈夫かなーって心配していたんです。ですから先生にお伝えしなかったんですがもう大丈夫でしょうね。この連休後も大丈夫だったらお伝えしようと思ってたんです。やっぱり先生がおっしゃってた通りですね。」とのことだった。

第三話 終わり

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